活版印刷—typographic printing—の起源は15世紀にさかのぼります。ドイツのグーテンベルクなる人物がこれを発明せり、と高等教育のカリキュラムで学んだようにご記憶の方も多いと思います。ところが、もっと昔から活字による印刷を始めていた国がある、ということをご存知の方は少ないのではないでしょうか。実は、グーテンベルクに先んずること3〜4世紀、すでにお隣の中国と朝鮮で原始活版印刷ともいうべき技術が実用化されていたのです。

まずは中国のお話から始めましょう。時は11世紀、宋の時代。この頃普及していたのは木版画による印刷で、1ページにつき1枚の版木をコツコツ作成して印刷していました。あるとき、なんとかもう少し効率を上げられないものかと考えた印刷職人がいました。彼はやがて“活字”という発想を見出します。藤堂明保著『漢字文化の世界』の記述にこうあります。“宋代11世紀の初めに、職人の畢昇(ヒッショウ)という男が活字を発明した。彼の作った活字は、粘土で作り、カマで素焼きにした陶製活字であって、それを鉄板の上に並べ、松ヤニで固定させるものであった。用済み後、熱を加えると松ヤニがとけて、活字がはずれる”

粘土に松ヤニです。まともに印刷できていたんでしょうか。想像がつきにくいのですが、ちゃんとできていたようで、続いてこうあります。“そのアイディアは元代の王棹(オウテイ)に引き継がれた。彼の方法は、木製活字を大量に用意し、それを回転式円盤の上に順序よく番号をつけて配列したものである。職人の一人が文字番号帳を手に持って、原文の文字の番号を引いて大声で知らせると、もう一人が文字盤を回して木活字を拾い、マス型の木枠の中に組み込んだ。活字の間に細い竹片をかませ、木のクサビを用いてすきまをうずめた。つまり今日の印刷組版のひな型が、13世紀には登場していたのであった”

このように、分業化まで行われつつ、ほぼまともに稼働していた様子が伺われますが、残念ながら以上の方法で印刷された制作物は現存しないので、仕上りの精度などは確かめようもありません。ちなみに、アルファベットの活字が文字別に箱に分類されたように、漢字には番号が振られて順番に整理されていたそうです。

さて、早くから実用化されていた中国の活字技法ではありますが、活字は長らく木製のままでした。グーテンベルクより後の16世紀、明代になってやっと金属活字が登場しますが、その後も木製活字が相変わらず好まれたようです。いったいなぜ木にこだわったのでしょう? 後の清の乾隆帝の時代になって世に出た、『中国活字版印刷法—武英殿聚珍版程式—』という書物の中で、木活字が愛される理由がこう書かれています。“思うに、泥をこねて作ったものは形が粗末であり、鉛をとかしてつくったものは質が軟かい。ともに木を彫って作ったものの精巧さには及ばないので、ここに単字(活字)計二十五萬余個を刻したものである”

驚異的に微細な部分まで精巧に表現された中国の透かし彫り細工の作品を、ごらんになったことがあるでしょうか。ディテールにこだわる高い美意識が、素材の選択肢を狭めていたようですね。

また、ミズノプリンティングミュージアム『PRINTING CULTURE 今、甦る文字と印刷の歴史』に、“あくまで中国では印刷の主流は木版印刷であり、ヨーロッパのように活版印刷がそれにとって代わることはなかった” とあります。文字だけを1セット用意して臨機応変に組む活字は、版木を1ページにつき1枚消費するよりも低コストかもしれません。が、いかんせんその活字が木製では、摩滅が激しく長期連用には耐えません。寿命が短いとあっては、用途も部数の少ない印刷物に限られます。まして、アルファベットとは比較にならないほど数の多い、何千何万もの漢字を一つ一つ彫るわけです。それも、粘土や鉛より精巧であることこそが木活字の意義ですから、大変な労力と忍耐を要します。そんなわけで、一般の印刷物は木版で刷られてしまうことが多かったのでしょう。しかし、活版印刷の強みである大量生産のメリットを犠牲にしてまで精巧さを優先させたということは、中国での活字の目的そのものが、生産性重視で合理主義の西洋とは違っていたようですね。

このことは、漢字文化圏の活字印刷が早くから実用化されながら、なぜ活字の起源として世に残らなかったのかという謎を解くカギとなりそうです。

さて、今度は視線を朝鮮半島へと移してみましょう。前出の『PRINTING CULTURE今、甦る文字と印刷の歴史』によると、“高宗二十一年(1234年)に銅活字版の『古今詳定礼文』五十巻(崔允儀選)が印刷されたという記録が残されている” そうです。残念ながらこれも現存しないため、真偽は定かではありません。しかし、『高麗史』百官志に、1392年「字を鋳て書籍を印することを掌る令丞あり」とあり、鋳字印刷が行われていたことだけは確かなようです。中国と違って活字が銅製なのは、高麗で銅が採取されていたためですね。さらにいくつかの政変を経て李氏朝鮮の時代。同書に“三代目の太宗の3年(1403年)に現在のソウルの南山に鋳字所が設けられ、【癸未字】といわれる銅活字数十万本が鋳造された”と記されています。

やがてこの朝鮮の活字発展のプロセスに、日本も登場します。残念ながら、歴史上の忌まわしい事実としてですが……。1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折り、日本の兵士達はお決まりの殺りくや金品の略奪、史跡の破壊にとどまらず、なんと件の活字一揃いまでも奪い取ってしまったのでした。その結果……“朝鮮の活字印刷は大打撃を受ける。これがようやく復活するのは1668年になってからである”

迫害はこれだけにとどまらず、清の時代の中国からも略奪を受けました。こうして、他国からの侵攻や国内の混乱のたびに、朝鮮半島の印刷技術は中断の憂き目に。歴史の不幸な巡り合せに翻弄されて、せっかく中世から本格的な金属活字による印刷が行われていながら、朝鮮の活字技術は国際的な普及に至る力を持てませんでした。

そして、先ほどの中国もそうでしたが、朝鮮もまた活字の使用目的からして、同じ書面の大量印刷が目的であった西洋とは違いました。グーテンベルクが発想した活字が、ヨーロッパ人の目から鱗を落とさせた最大の点といえば、活字の母形さえ作ってしまえば、その型に流し込んで同じ字形の活字を何本も鋳造できることでした。これなら組み合わせ次第で何種類もの書面を大量に印刷でき、それまでの木版や手書きによる印刷よりもケタ違いに効率がよくなります。

ところが漢字文化圏の場合は、多種多様な書面を美しく正確に刷り上げる技術の方を最重要視し、活字を並べ替えるだけで別の文面もこなせる手軽さにだけは着目したものの、それ以上の生産性は考えませんでした。実際、朝鮮半島で活字印刷されていたのは、お上が制作する国家文書やらお金持ちのご先祖様の貴重な著作といったような、およそ大量印刷とは縁のないものがほとんどでした。大量印刷が必要な一般向け印刷物はわざわざ木版に彫り直したりしていたようで、なにやら中国の木版信仰と発想が似ています。

技術水準はともかく、少数の貴族による独占所有物としての存在から脱皮できなかった中国や朝鮮半島の活版印刷は、大量生産・大量消費の産業革命へ向かう時代の流れにはそぐわないものだったのでしょう。結局、漢字文化圏における活字は、世界的に日の目を見ることなく近代化の波に飲み込まれてしまったというわけです。両国で現在普及しているのが、冒頭で触れたグーテンベルクのものを原形として西洋で発展した印刷術であるというのが、いささか寂しい気もします。もしも漢字の活版印刷が独自な発展を遂げていたら、現在の日本の印刷、写植の技術、さらにDTPやコンピュータのOSまでも(?)、また違ったものになっていたかもしれませんね。

執筆:杉山朋子、村松佳子、蛭田龍郎

参考資料

  • 漢字文化の世界
    藤堂明保 角川書店/1982
  • PRINTING CULTURE 今、甦る文字と印刷の歴史
    ミズノプリンティングミュージアム ミズノプリテック株式会社/1993
  • 朝鮮を知る事典
    伊藤亜人・大村益夫・梶村秀樹・竹田行夫監修 平凡社/1986
  • 技術・科学・歴史
    D.S.L.カードウェル 河出書房/1982
  • 出版文化と印刷
    横山和雄 出版ニュース社/1992
  • 中国活字版印刷法—武英殿聚珍版程式—
    金子和正編著 汲古書院/1981