DTPによる出版物の制作現場の現実
今ではあまり聞かない“OA化”という言葉があります。オフィスオートメーション(Office Automation)の頭文字を取った造語ですが、このOA化が進むにつれて、紙の消費量が減ると言われた時期がありました。
オフィスにコンピュータが普及すると紙の書類が不要になるので紙の消費が減るに違いない、という予測です。また、新聞も紙に印刷されない“電子新聞”になり、紙の生産量の25%を占めているとされる新聞紙の需要もいずれなくなるだろうという話もありました。
その頃の製紙業界は「ペーパーレス時代」の足音に真剣に脅えていたそうです。製紙会社に勤務する人たちのおかげで求人誌の発行部数が急増したとか、しないとか。ところが実際にコンピュータ化が進んでみると、紙の消費が減るどころか連続伝票用紙やコピー用紙の需要が大きく伸びて、以前より紙の消費量が格段に増えてしまうという結果になりました。
なかでも皮肉な現実は、DTPによる出版物の制作現場が紙の大量消費現場になっているということです。執筆者から入った原稿のデータはまず何部もプリントされます。
編集者とデザイナー、レイアウト担当者、イラストレータ、進行係、編集長など、何人もの人がそれを1部ずつ受け取り、各人が引き出しやキャビネットにしまい込む(そして忘れる)、机の上の書類の山をさらに高くする、ごみ箱に放り込んで始末するなど、それぞれのやり方で処理したところで、よ〜いドンと仕事が始まります。
DTPによる出版物の制作現場の典型的な姿は、用紙トレイが空になれば直ちに無条件で補給されるという理想的な兵站環境にあるレーザプリンタが休む間もなく校正出力のプリントアウトを吐き出し続けるという光景かもしれません。
校正出力は初校と再校だけという場合でも、その蔭で校正紙の屍が累々と築かれていることがしょっちゅうあります。出力した校正紙をプリンタから取り上げて眺めてみると、あれあれ……間違い発見。紙の上に赤字を入れて編集長に渡すと冷たい目で見られるので、画面上で修正してもう一度プリント。その校正紙を見ながら編集長のデスクに向かって歩いていると、今度は別の間違いを発見!というように、校正紙が編集長の手に渡るまでに延々とプリントが繰り返されることになります。
事務系のオフィスも紙の大量消費に貢献しています。会議につきものの資料も、ワープロやコンピュータで作成して出席者の人数分プリントアウトするなりコピーをとるというが普通です。
万が一足りないと慌てるので余分に用意しておくというのもごく一般的。1部ずつホチキスで留めたところで内容訂正の連絡が……ということもよくあります。資料の訂正がそれほど簡単ではなかった時代は、正誤表を一緒に配るとか口頭で説明してそれぞれ訂正してもらったりしたものですが、何でも簡単に訂正できる今は画面上で直して再度プリントアウトするということに。前の資料は不要となって、シュレッダにかけられる運命となります。
プリンタの印字速度の向上と紙の消費量の増加にも相関関係がありそうです。ドットプリンタで印字していた頃は1枚プリントするにもずいぶん時間がかかりましたが、最近のレーザプリンタには毎分数十枚などという高速な機種もあります。
100ページの資料のうち10か所訂正があるような場合、訂正を加えた該当ページだけ選んでプリントするよりも全ページプリントする方が簡単で、しかも速い。そうなると、時間が一番貴重な生産性重視の現代社会では、多少紙を無駄にすることなど構っていられないという話になりがちです。
コンピュータを使うと簡単に文書を作成してプリントできる……修正も簡単なので間違いがあれば何度でも直してプリントする……というわけで、皮肉にも電子メディアが紙の消費を増やす功労者のような役割を果たしてしまったようです。
こうした現状を見ると、電子メディアの普及によってペーパーレスの時代が到来するという予想は短絡的で的外れだったようにも思えてしまいます。しかし、そんなに簡単に片付けてしまっていいのでしょうか?
もちろん「ペーパーレス」=「100%紙不要」ということであれば別ですが、本来は“電子メディアの発展→紙の消費量の減少”というのは至極あたりまえの発想です。
それは、情報の用途だけを考えてみれば、紙に転写される必要のないものもたくさんあるからです。そうした情報が、コンピュータの画面上に表示するといった電子的な方法で消費されるようになれば、確かに紙の消費は減るはずです。しかし、文字情報を画面で読んで済ませるという風にはなかなかなりません。
では、モニタの画面で文字を読むということ自体に何か問題があるのでしょうか?