1996年10月号の日経バイト誌に掲載された記事が、インターネットのWWWページにも新聞のような縦組みのテキストを載せることができるようになると報じて注目を集めました。世界に向けて簡単に情報発信できるメディアとして急速に発展しているインターネットのWWWページ。しかし、テキストのレイアウトに関しては制限が多く、縦書きの表示はできません。
それは、WWWページを記述するための言語であるHTML(HyperText Markup Language)がテキストのレイアウトについては初めから横組みしか想定していないので、当然のことです。
将来的にも、HTMLで縦組みがサポートされることは多分なさそうです。日経バイトの記事も「日本語AcrobatがWWWページを変える」というタイトルで、Adobe Acrobat 3.0JによってWWWページに“縦組みのコンテンツ”を入れることが可能になるよ、という内容でした。
日本語の文書は横組みが増えたとはいえ、基本は縦書きです。パソコンに慣れた人ならば画面上で横書きの文章が並んでいてもさほど苦にはなりませんが、一般人、特に中高年の日本人にとっては縦書きの文章の方が読みやすいに違いありません(と書くと、何でこの本は横組みなんだ?と突っ込まれそう。縦組みにしたいのは山々ですが、色々と事情があって……)。
ともかく、HTMLで記述するかぎり、新聞や雑誌のような縦組み文章は、横組みに直すかテキストの代わりに画像として表示させる以外に手はありません。
しかし、Acrobatの登場で、どんなアプリケーションで作成した文書でも、そのままの形でWWWページに載せることができるようになりました。 縦書きの記事や段組、表、写真、コラムなどオリジナルのレイアウトを保ちながら情報発信することが可能になったわけです。読売新聞社が実験的に新聞の速報版をインターネット上で公開したところ大変な評判になりました。
地図をPDF書類の形式にして掲載しているところもあります。WWWぺージで主流のビットマップ形式の画像ファイルは拡大すると画質が荒くなるだけですが、Acrobatが扱えるアウトライン形式の画像は拡大してもぎざぎざにならず、きれいに表示されます。
したがって、PDF形式の地図なら縮小表示で全体像をつかむことも、拡大して通りの名前や番地を知ることもできるようになります。また、プリントしたときにプリンタが許す最高の品質(解像度)で出力されるため、高品位のプリント結果で紙に転写することも可能です。 また、沖縄県で発行されている「マンスリーオキナワ」という広報誌もPDF形式でインターネット上に公開されています。雑誌のページをめくるように、WWWページからページごとにダウンロードして読むことができます。
通常のブラウザでこのようなことが可能なのは、Acrobat Readerと呼ばれるPDFファイルの表示ソフトをブラウザにアドインしておくことができるからです。このAcrobat Reader はアドビシステムズ社がさまざまな方法で無償配布しているので、簡単に入手できます。
このように印刷物をそのままの形でホームページに載せることが可能になったため、広報誌やミニコミ、広告などをWWWページに載せる新たな可能性が広がりました。
アメリカの国税局(IRS、Internal Revenue Service)は、税金の申告用紙のPDFファイルをWWWページから入手できるようにもしています(http://www.irs.gov/)。日本の源泉徴収による税制とは異なり、アメリカではすべての人が税金を申告しなければなりません。
申告用紙をもらうために税務署に出向く代わりに、WWWページから簡単にダウンロードできるので、夜中でもいつでも、思い立ったときに心置きなく(!)税金の申告書類を書き始めることができるわけです。
WWWページでAcrobatを利用している例をいくつか見てきましたが、Acrobatは、WWWブラウザを拡張するアプリケーションというわけではありません。
Acrobatは、いくつかのソフトウェアで構成された製品で、PDF形式の書類の作成と表示、プリントを行う総合的な環境を提供しています……というような説明だけなら単純ですが、Acrobat 3.0Jのパンフレットにあるように“あらゆるドキュメントが電子配信可能に”なるとか“新しいコミュニケーション手法”がもたらされるなどといわれると、なんのこっちゃい?と目が点になりそうです。
情報には必ず発信者と受信者が存在します。発信者が、印刷物をはじめとするさまざまな媒体に情報を載せて、受信者に送り届ける。これが、情報の伝達の基本的な姿です。
このとき、情報を載せる各媒体が持つ特質である“ポータビリティ”が重要な要素となります。ポータビリティ(portability)を「可搬性」と訳してしまうと、単に離れた場所に物理的に運べるかどうかという性質のように思えてしまいますが、別の場所に運んだうえ、本来の目的に沿って利用できるかどうかという意味が含まれています。
Adobe Acrobatの文書形式はPDF(Portable Document Format=ポータブルドキュメントフォーマット)と呼ばれています。これはPDFという形式の電子書類が、電子メディアのための論理的な媒体として高いレベルのポータビリティを実現しようとしているからです。
ここでいう“電子メディア”とはワープロ専用機や電子手帳などを含む広い意味でのコンピュータを指していますが、この電子メディアには共通の基盤が無いため、全般的にポータビリティが低いという問題があります。
言い換えれば、コンピュータを使って情報を文書化したデータは特定のハードウェアやソフトウェアに依存することが多く、情報の受信者がそれを利用できないこともあるというわけです。
本来なら、終始一貫して“電子的”に配信・利用されるべき電子メディアの情報が、旧来からの物理的な情報媒体である“紙”に転写されて配信・利用されることが多いのも、これが理由です。
つまり、電子メディアの情報のほとんどが紙というまったく電子的でない媒体に移されることによってやっとポータブルになり、広く配信・利用することが可能になるわけです。電子メディアにおいても情報伝達の要ともいうべき役割を担っている紙の代わりに、電子メディアに相応しい媒体となるべく登場したもの、それがPDFという文書形式です。
PDFは、電子メディアが待ち望んでいた共通の媒体、つまり電子メディアのための“電子的な紙”かもしれません。そしてAcrobatは、単一の共通基盤が無く混沌としている現在の電子メディアによる情報伝達を、PDFという電子的な紙を使うことによって、本来あるべき姿に変える機構だと考えることができます。
概念的な話が続いてしまいましたが、情報のポータビリティという考え方をキーワードにして、もっと具体的にAcrobatとPDFの本質に迫ることにしましょう。欧文の1バイト文字コードを扱うAcrobatはすでに数年前に登場して欧米ではかなり普及しているわけですが、初めての日本語版であるAcrobat 3.0Jがリリースされた1997年を(日本の)“PDF元年”と勝手に決めて、話を進めることにします。