タイトル 掲載物 掲載年
はつひやまと ブレーン6月号(5/1発売)フォントワークス広告 1999
マティス MacPower5月号(4/18発売) MdN特別号(3/23発売) フォントワークス広告 1999
フォントワークス書体見本帳 1997/98
ロダン フォントワークス書体見本帳 1997/98
セザンヌ フォントワークス書体見本帳 1997/98
スーラ フォントワークス書体見本帳 1997/98
エル・グレコ フォントワークス書体見本帳 1997/98
寂寥と沈静 フォントワークス書体見本帳 1997/98
成熟した美しさ フォントワークス書体見本帳 1997/98
アルルの太陽 フォントワークス書体見本帳 1997/98
ネパールのブランコ フォントワークス書体見本帳 1997/98
緑の精気、月の知恵 フォントワークス書体見本帳 1997/98
明るい緑 フォントワークス書体見本帳 1997/98
幸せを味わう フォントワークス書体見本帳 1997/98

はつひやまと

ちょうど気持ちのいい温度だったせいなのだろう。いつの間にか眠りこんで、読んでいた本を風呂の中に落としてしまった。湯の中に沈んだ本から文字がどんどん剥がれ落ちて、膨らんでいく。この調子でふやけ続けたら二度とページに戻せなくなってしまう。手当たり次第に掬い上げて風呂場の壁に貼り付けたが、追いつかない。

 とうとう湯船から溢れ出した。慌てて排水口を手で塞いだ。でも、指の隙間をするりと抜けて、文字がいくつか流れていってしまった。

 なくなった文字を探しながら深夜の街を歩いた。老婆が洗濯バサミで文字を留めている。

「それ、僕のじゃないですか?」
「あんたは捨てたんだと思ったよ。まだ必要なら返すけど」と言いながら、彼女は竿から文字を外して投げてよこした。しわくちゃだった。

「初日に当てればすぐにしゃきっとなるさ」
「でも、今は4月です」
「馬鹿だね。毎朝太陽が昇るときがその日の初日の出。そう思うことが大事なんだよ」

 東の空が紫に染まり始めた。それがオレンジに変わり、薄い雲を照らし出すと、無数の光の矢が一斉に放たれた。地上に達した一筋の陽光に射貫かれた文字はみるみるうちに乾いていく。

 その文字は「希望」だった。

*フォントワークスの「はつひやまとMat」ファミリーの広告(ブレーン6月号)に使われた文章です。ちなみに、「はつひやまとMat」は今田欽一氏デザインのかな書体です。

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マティス

大学紛争たけなわの六十年代。ある大学で美術史の講義を受けていたとき、ビートルズ風のマッシュルーム・カットをしたカトリック神父兼大学講師が「二十世紀最大の画家はピカソとマティスだと信じておりましたが、最近はマティスこそが偉大だと思うようになりました」と言った。

マティスというと、当時シュールやダダ、ポップだと流行を追っていただけの僕にとっては古典的な存在でしかなく、ほとんど興味の対象外だった。でも、その大学講師である神父の言葉には不思議と実感がこもっていて、故知らず心に残った。

何年も経ってから突然、その神父はピカソとマティスを美術史の研究者として以上に信仰者として敬愛していたのだということに思い至った。あの当時のピカソはちょうど「エロスの饗宴」とも呼ぶべき一連の作品をものすごい勢いで制作していた頃だった。何もこれが神父をしてピカソよりもマティスを高く評価させたわけではないだろうが、神父の言葉の中にあったのはピカソへの裏切りにも似た失望と、それに対する反動として、マティスを神聖視しようとする情熱だったのだろう。

「以来、僕はことあるごとにマティスの画集をひもとくようになった。そしていつの間にかマティスの作品に漂う宗教性にも似た、静かで澄明な精神性に魅せられるようになった。神父のようにピカソに失望することこそなかったけれど、マティスを神聖視し始めたのかもしれない。

マティスは自らの作品を「快い安楽椅子に座ったような芸術」と表現した。また「芸術は常に純粋で静かなものであり、魂を静めるものでなければならない」とも言った。それが宗教性とどう係るものなのかなど、僕は今まで一度も考えたことはない。ただ、マティスの画集を眺めていると必ずあの神父のことが思い浮かんでくる。

*マティスPlusファミリーの書体見本(1997年)に続いて、MacPower1999年5月号(4/18発売)とMdN特別号(3/23発売)に掲載されたフォントワークスのかな書体「わかばやまとMat」の広告で使われた文章です。ちなみに、「わかばやまとMat」は今田欽一氏デザインのかな書体です。

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ロダン

マリア

オーギュスト・ロダンの2歳年上の姉、マリア。長い髪と大きく澄んだブルーの目、くっきりとした口許をした美しい女性だったというマリアは、少年時代のロダンにとって周囲から彼を保護してくれる守護者のような存在だった。また、彼の才能の良き理解者でもあり、美術の道に進むきっかけを作ったのもマリアだといわれている。マリアはロダンの友人の画家に恋をしたが、結局捨てられてしまう。傷心のマリアは聖ウルスラ修道女会に入ったが、失恋の痛手から立ち直れないままにわずか25才で死を迎える。突然の姉の死に自分を責めたロダンは、宗教に逃れようと聖サクラメント修道会に入り、そこで見習い修道士として一年間ほど心の傷を癒すことになる。 彼女を捨てた画家が描いたマリアの肖像画が今も残っている。その中のマリアは来たるべき悲劇と短い人生を予期しているかのように物憂げで、寂しそうな表情を浮かべている。

ローズ

ロダンが24歳の年に出会い、生涯の伴侶となったローズ・ブーレ。ほとんど文盲だったというローズは、貧乏な駆け出しの彫刻家にすぎないロダンをすべての面で支え続けた。馬小屋を改造したロダンのアトリエに住み、お針子をしながら家計を支え、料理や掃除洗濯をこなし、作品のモデルとなり、制作中の石膏が乾かないように湿度を保つ役割も引き受けた。正式に結婚しないまま、認知されないロダンの子供を産み、育てながら。次第に衰えゆく自分の容姿とロダンの奔放な色恋沙汰に怯え、それでも彼を愛し続けたローズ。ロダンとの結婚が成立するのは出会いから53年後、彼女の死のわずか16日前である。同じ年にロダンも死を迎え、ローズのそばに埋葬された。
ロダンの「花飾りのある帽子をかぶった若い娘」のテラコッタ像には愛らしく清純なローズの姿が永遠に閉じ込められている。はにかんだように少し開いた口許から今にもロダンの名前を呼ぶつぶやきが聞こえてきそうな気がする。

カミーユ

ロダンの彫刻の弟子であり、モデル、そして愛人だったカミーユ・クローデル。その美貌と天才的な彫刻の才能でロダンを虜にしたカミーユは、当時まだ19歳だった。彼女は、芸術家として男と対等に仕事をしようとする気丈さ、そして自分の才能や社会的地位を犠牲にしても愛にすべてを捧げようとする純粋さを合わせ持っていた。親子ほど歳が離れてはいても、最高の師であり恋人であり、お互いを刺激しあえるライバルでもあったロダンと過ごす充実した日々。しかし、すべてが順調のように見えたのも束の間だった。師を超えるほどにまで成長したカミーユの知性と才能、そしてあくまで結婚にこだわり彼のすべてを独占したいという彼女の激しい熱情に恐れをなしたロダンは、ローズ・ブーレの元に逃げ帰ってしまう。ロダンの背信に傷ついたカミーユはひとりで創作活動を続けたが、しだいに精神を病んでいく。とうとう精神病院に幽閉された彼女は、死が訪れるまでの30年間、そこを出ることはできなかった。
ロダンの「パンセ」に彫られた22歳のカミーユは美しく、優しい。しかし、実際には身に着ける機会のなかった婚礼の被り物を被ったその表情の中に、思いつめたような影があるように感じるのは錯覚だろうか。

*フォントワークスのロダンPlusファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


セザンヌ

小学生の娘が「パパの本棚にある画集を見てたらセザンヌが好きになっちゃった」と言う。あの人が僕にセザンヌの話をしてくれたのは、ふたりがちょうどこの娘ぐらいの歳だった。「自分が本当に好きなセザンヌを見つけて欲しいな」と言うと、娘はけげんな顔をしたまま黙ってしまった。

クラスで一番の優等生だった幼馴染の彼女の部屋は明るく、いつも綺麗に片付いていた。壁には赤い屋根の傾いた家の絵が一枚画鋲で留めてある。

「この絵はね、セザンヌの“シェ・ド・ブッファン”なの。大人になったら本物を買うつもり」プラモデルと少年マガジンにしか興味がなかった僕はセザンヌが誰なのかも知らない。それを見透かしたように「フランスの画家なのよ。パパが大好きで、たくさん本を持ってるから、私も好きになったの。見せてあげるね」と彼女は父親の部屋から一冊の大きな画集を持ってきた。ベッドに腰掛けて彼女は画集のぺージをめぐりながら、絵を一枚一枚説明してくれた。僕にはほとんど理解できない言葉で。大きな窓から差し込む午後の光に照らされた彼女の白くて細い指、長い髪から微かに漂ってくる快い香リ。時折ふたりの肩が触れ合うたびに僕は息が詰まりそうな気がした。

しばらくして彼女は両親のすすめにしたがって有名な私立の学校に転校していった。そのとき、誇らしげな彼女の表情の中に少しだけ寂しそうな影を見たような気がしたのは錯覚だったろうか。

それ以来、ふたりの間に共通項は無くなった。偶然道で出会うことがあっても、僕にとって彼女は遠く、まぶしい存在となってしまい、ちぐはぐな短い言葉を交わすことしかできなかった。

ようやく入った三流大学の文学部で僕がぐずぐずとモラトリアム状態を続けている間、順調に大学を卒業した彼女は父親と同じ外務省のエリートと結婚して、夫の勤務地のフランスに移り住んでいった。永井荷風が描いた東京を卒論のテーマに選んだ僕は、自分が何をしたいのかわからず、ただ漠然とフランスに留学する夢を描いていた。でも、フランス語の実力が決定的に不足していたため、代わりにアメリカの大学に留学することになった。結局、フランス行きを諦めアメリカヘという荷風と同様の道をたどることになったわけだ。

何年か後、彼女の父親が亡くなったことと、その直後に彼女が突然失そうしてしまったという話を風の便りに聞いた。「私のセザンヌを捜しに行きます」という短い置き手紙だけを残して。誰もその言葉の意味が理解できなかったらしい。でも僕にはわかるような気がする。“シェ・ド・ブッファン”を捨てる決心をした彼女の気持ちが。

*フォントワークスのセザンヌPlusファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


スーラ

スーラの描く人物は一様に無表情で寡黙だ。代表作の「グランド・シャッド島の日曜日の午後」に登場する人々は、当時流行だったに違いない服を着て、ほとんど不動のまま沈黙している。あたかも、幾何学的な空間に精密なバランスをとって配置された置き物のように。別の作品に描かれているサーカスや踊りの観客でさえ陽気さとは無縁で、ただ静まりかえっている。色彩と光、線の角度がもたらす効果を理論的に考え抜き、調和の取れた均衡を編み上げることに没頭していたというスーラ。彼はきっと、人間そのものにはまったく無関心で、理屈っぽく、退屈な男だったのだろうと僕は思っていた。しかし、そんな勝手な思い込みは他の作品と比べると異質な「化粧をする若い女」を前にして崩れてしまった。

部屋の中の奇妙な形の化粧道具を前に豊満な女が白粉をはたいている。19世紀末の卑俗さを目一杯見せつけているような髪型をした女の姿は肉感的で、屈折したエロチシズムさえ感じさせる。動きが余り感じられないのは他の作品と同様だが、少し微笑んでいるような女の表情は豊かで、生々しく、卑猥な雰囲気さえ漂わせている。生きている人間の暖かさが十分に伝わってくる。この作品は、パリの中流家庭に生まれ、何の苦労もなく国立美術学校に学んだスーラの生い立ちと、光と色彩の科学的な分析に基づく彼の計算しつくされた画風にふさわしい絵とは思えない。

お世辞にも美人とはいえないこの太った女のモデルは愛人のマドレーヌ・ノブロックだという。スーラは彼女と付き合っていることを秘密にしていた。誰にも知らせずに結婚していたともいわれている。31歳でスーラが病死するまで、親しい友人でさえマドレーヌと1歳になったばかりの子供の存在すら知らなかったという。

この絵には、壁に掛かった扉付きの窓あるいは鏡のようなものも描かれている。その中にはテーブルの端に置かれた鉢植えがある。これが窓であっても鏡であってもそこから見える、あるいはそこに映るような位置に鉢植えがあるのは不自然で、実際にはありえない構図だ。実は、この場違いな鉢植えは後から加えられたもので、元々この中には鏡に映ったスーラ自身の姿が描かれていたという。スーラが鏡に映った自分の姿を消して、場違いで構図もおかしい鉢植えに変えた理由はいったい何だったのだろう。自分自身を絵の中に留めておくことに耐えられなくなったのか、誰かにそうするようにすすめられたのか。親しい友人や家族でさえ理解してくれそうもないマドレーヌとの愛。それをひた隠しにしていたスーラの屈折した思い。それが、ふたりだけで共有していた空間を描いたこの作品の中に込められているのだろう。彼の肖像の部分が消されてはいても、この作品の中には等身大で生身のスーラの残像が大きく、そしてはっきりと見えるような気がする。

*フォントワークスのスーラPlusファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


エル・グレコ

エル・グレコと初めて出会ったのは、僕が小学校六年生のときだった。とはいっても、この十六世紀末のスペインの巨匠について当時は名前すらも知らなかった。校舎三階の西側にあった美術室の壁に美しい聖母像のレプリカがカレンダーのように画鋲で貼り付けられていたのを眺めていただけだった。それがグレコの作品だと知ったのは、かなり後になってからのことである。僕は教室に入るたびに「ずいぶん無雑作に飾られているな」とそのぞんざいな扱いに不満を感じたのと同時に、そこに描かれているうつむき加減な聖母の面影にうっとりするような憧憬を抱いた。時折窓からさす西日が揺れていたりすると、授業中であることも忘れて胸が締め付けられるようなせつない思いがしたものだった。

それからずっと後になって、高校の教科書でそれが「聖家族」という傑作の一部分であることを知った。レプリカでは聖母の顔の表情しかわからなかったが、原画の構図では、夫ヨセフに見守られながら幼いキリストに乳房を含ませているマリアの姿。しかし、それが宗教画であると知ったところで、なんら新しい認識を深めることにはならなかった。僕にとってその聖母像は、現実に存在しておかしくはない、あくまで身近な思慕の対象だったから。今でも生き生きと脳裏に浮かんでくるのは、あの繊細そうな鼻筋、やわらかな唇、そして異様なほどに大きな瞼だ。しかもそれをやさしく包んでいるえんじ色のガウンはといえば、プラトニックな恋情の炎のようにあでやかだった。

今でも時折考えることがある。あの絵の中に描かれているのは、本当に聖母マリアなのかと。なるほどイエス・キリストを抱いた構図は、聖なる場面にはちがいない。しかしあの明眸細面のマリアとは、エル・グレコが熱愛した妻ヘロニアの似姿なのではないかと。

*フォントワークスのグレコPlusファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


寂寥と沈静

一見なんの変哲もない風景画。しかし、不思議な静けさに満ちている「白の時代」の連作は、祈り以外のなにものでもないように思える。人は追い詰められてなす術もないとき、祈りをあげるのだろうか。奔放に生きた女流画家シュザンヌ・ヴァランドの私生児であったというユトリロの数奇な運命のことを知らなければ、僕もおそらく彼の作品に関心を寄せることはなかったかもしれない。パリの街、それも庶民の哀歓のしみこんだ街を好んで描き続けたユトリロ。ひっそりとそびえる教会、人の気配のほとんど感じられない裏通り、さびれたカフェ。絵画の題材というよりも、それはむしろ心の傷を癒すために探していた風景なのか。それでいてその寂寥とした世界はあまりにも美しい。絵筆をとる彼に残されていたのは、慰安の祈り、ただそれだけだったのかもしれない。

白の時代の代表作の中に「ドゥーユ村の教会」という作品がある。この作品を前にするとき、僕は常に言葉を失っている自分に気がつく。そこにあるのは、一切の饒舌を許さない沈黙。そして、祈りをあげる者だけしか寄せつけない、ユトリロの決然たる表現。にぶく沈んだ青空の下、ひっそりとたたずむ白亜の教会は、孤独な画家の魂そのもののように沈静している。

1908年頃から14年頃だとされている白の時代のユトリロは、画家としてもっとも充実した時期を迎えていた。一方生活面においては、酒と放浪に明け暮れた、いわば呪われた時期でもあり、彼は酒による愚行のために絶えず激しい自責の念に苛まれていたという。しかしそんな中で彼は次々と傑作を生み出していった。アルコール中毒症で精神病院の入退院を繰り返しながら。

それにもかかわらず、作品からは生活の悲惨さよりも精神の充実ばかりが伝わってくるのはなぜだろう。逆境にあって汚れない魂の聖域を見いだした静けさばかりが伝わってくるのは。しかも白の時代のユトリロを思うとき、僕には彼が世界一の幸せ者のようにさえ思われてくる。ほのかな嫉妬さえも感じるほどに。

*フォントワークスのユトリロPlusファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


成熟した美しさ

華やかで妖艶な洋ランの代表として、女王のような気高い風格を備えているカトレア。19世紀の初め頃からヨーロッパで園芸化されましたが、生長しているのは中央アメリカと南米だけです。「カトレア」とは約40種あるラン科カトレア属の総称ですが、正確な学名はカトレーアと言って、イギリスの園芸愛好家、ウィリアム・カットレーを記念したものだそうです。

カトレアの花ことばは「あなたは美しい」「優美な女性」「成熟した年輩の人の魅力」などですが、イングラムの手による1887年刊行の『花ことば』には記載されていません。新造の花ことばなんですね。それにしてもなんて魅惑的な表現でしょう。イギリスのある女流詩人の作品には、こんな一節があります。

何百本のバラより
何千本のデイジーより
何億本のカーネーションより
私は欲しい
一輪のカトレアを……

いつかカトレアの花ことばにふさわしい女性になって、愛する人からこの花を贈られてみたい……。そんなロマンチックな夢に誘う妖しい魅力を、カトレアは振りまいて止みません。

参考文献
「素敵な花に想いをよせて」 SAKURAハウス・編 永岡書店
「花ことば 花の象徴とフォークロア」 春山行夫 平凡社

*フォントワークスのカトレアRodファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


アルルの太陽

歌に歌われたり映画のモチーフになったりと、ひまわりは昔からさまざまな芸術家に愛されてきました。しかし、ゴッホほどひまわりを愛した芸術家はいないのではないでしょうか。

美術商、書店勤務、臨時伝道師と職業を転々としてきたゴッホが画家になる決意を固めたのは1880年、27歳の時。弟テオの援助を受けながら絵に没頭するゴッホは、8年後の1888年に南仏アルルに移り住みます。

彼をアルルへと誘ったのは、光り輝く南仏の日差しの色、黄色でした。

「まったく輝くばかりの強烈な夏の日だ。太陽、光、ほかに適当な言葉がないので、僕はただ黄色、青白い硫黄のような黄色、金色の青みがかったシトロンと言う。黄色、なんと美しい色だろう!」

アルルの太陽が放つ黄色は彼の心を虜にし、“黄色い家”と呼ばれるアトリエにおいて、ゴッホは太陽の黄色の化身とも言うべき代表作、「ひまわり」を完成させました。

古代ペルー王国でも太陽神の象徴として崇められてきたひまわり。今でもひまわりは常に太陽の方を向いて咲く花、と思われているようですが、実はそういう性質はないのだそうです。

でも、たとえそれが事実ではないとしても、サンタクロースの存在を信じるように、ひまわりはいつもお日さまと向かい合っている花、と信じていたいものです。偉大な画家が生涯を賭けて追い求めた花なのですから、それくらいのフィクションは許されてもいいのではないでしょうか。

参考文献
「ゴッホ−燃え上がる色彩」 パスカル・ボナフー 創元社

*フォントワークスのひまわりRodファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


ネパールのブランコ

国旗が世界で唯一四角形でなく、山の形をしているネパール。山こそネパール文化そのものであり、ネパール人の穏やかな性格は、山の崇高な静けさのなかで生まれ育まれてきたのだろう。

しかし、首都カトマンズは喧噪と塵埃の町だ。聖なる町というイメージとは程遠い。旅行者をまず翻弄するのは、交通渋滞と排気ガス、そして土煙。そんな町から眺めるとあまりにも遠く思われる山々。もっと近くへ行ってみたくなり、バスを乗り継いでナガルコットの町へ。海抜2100mあたりまで来ると、山らしく空気が澄んでいる。

ホテルに到着すると、チベットの若い男が庭に立ち並んだネパール様式の赤いレンガと木で作られたコテージのひとつに僕を案内してくれた。すぐ前方が断崖で下はすり鉢状の森閑とした谷間になっている。そして、正面にまるで一枚の絵のように神々しい山の姿が一望できる。

ここには町らしい町など存在しない。車が通過するたびにもうもうと土煙が立ち上ぼるわずか百メートル余りの一本道に、庶民的な食堂や茶屋、雑貨屋、洋服の仕立屋、そして薬局等が数軒あるだけだ。汚れたゴム草履を履いた男たちが、これと言った目的もなさそうにブラブラ歩いている。子供が、バスで到着したばかりのリュックを背負った旅行者の後を追いかける。水飲み場では、若い女性が女の子の髪をすいている。家の戸口から老人が顔をちょこんと出して、唾を吐く。数匹の野良犬が遠慮がちに肉屋の敷居に前足を乗せ、じっと中を覗いている。

食堂の裏手で小さな女の子が、板きれを縄で縛っただけのブランコに乗って遊んでいた。そこは小さな空き地で、ブランコは宙に揺れて崖の向こう側まで飛び出して戻って来る。正面に見えるチョー・オユー(8153m)、ガウリサンカール(7145m)、メルンチュ(7181m)、そしてエヴェレスト(8848m)などのヒマラヤの尾根に向かって、ブランコを揺すっている素足の女の子。胸をはって、白いスカートを風になびかせながら、ブランコをこいでいる。切り立つような崖の宙に浮いて、静かに戻って来るブランコ。こんな素敵な遊びができる女の子がとてもうらやましかった。

やらせてもらったかって? 縄が切れて落ちたらどうするの。

*フォントワークスのNTLG_Rodファミリー、ハッピーRodファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


緑の精気、月の知恵

太陽のエネルギーを受け、
ジャングルの緑の精気から誕生し、
月から知恵を授かったアニト。
色は黒く、手足はたくましく、万能の英知に溢れ、
光の矢に乗って行動するアニトは、
弱い者を助け、勇気を与えてくれる。
助けを求めれば、いつでも、どこにいても、
駆けつけてきてくれる。
海辺に暮らし森に生きる者にとって
掛け替えのない存在だったアニトだが、
最近は田舎にひきこんだままのようだ。
おじいさん、おばあさんの心に今も残るアニト。
どうか再び力強い姿を現しておくれ。

—フィリピンに語り継がれている昔話より—

【アニト(あるいはアニート)、anito】

タガログ語の精霊、祖霊。身近な霊的存在として、スペインによる侵略を受ける前にフィリピンで広く信仰されていた。広い意味では自然のあらゆるものに宿る霊的および超自然的な存在のこと。

*フォントワークスのアニトファミリーの書体見本(1997年)に使われた文章です。


明るい緑(Il verde chiaro!)

人との出会いでは、うんとたまらなく好きになる場合と、ちょっと普通に好きになる場合がある。ひとつの国への思いにも、似たような感情があるような気がする。僕にとって、なんでも許せる親友のような存在なのがイタリアである。

僕の両親は来年金婚式を迎える。そんな両親に親孝行らしいことを何ひとつしたことのない僕が、イタリア旅行をプレゼントしたいと思っている。二人にぴったりの旅。それは“緑の島”への旅の切符だ。

“緑の島”と呼ばれているイスキア島は、いかにも南国らしいオリーブの樹木の間に白く小さな家が建ち、入江や湾が多い海岸には港がひっそりと点在している。古代に火山の噴火によって海中から出現したこの島では、いたるところに温泉がわき出ている。なかでも有名なのがポセイドンと呼ばれる温泉公園で、なだらかな丘陵地に20の温泉プールがある。打たせ湯や歩行浴、蒸し風呂、洞窟サウナ、泥浴、砂浴などに加えて、温水と冷水に分かれて温冷交代で浴びる“日本風呂”というのもある。温泉といっしょに日光浴、さわやかな海の大気を満喫できる。そして、いくつかの教会を含む美しい建物の遺跡が連なっているイスキア城。クーポラがすっかり空洞になった教会は、長い歴史を経て自然のなかへ戻ってしまったかのような印象さえ与える。まさに自然と人間が作った歴史が混然一体となった風景だ。

両親には結婚50年を記念して、ぜひ行って欲しいところがもう1ヵ所ある。それは、フォリォという小さな町にあるサンタ・マリア・デル・ソッコルソという名の教会である。海に面して建っているこの教会はフランスの映画監督エリック・ロメールの映画「緑の光線」のヒントになった所で、水平線に太陽が沈む壮大な光景を望むことができる。そして、太陽が水平線から消える瞬間に“緑の光線”を見た者は幸せになれると言われている。映画のなかでは、偶然出会った若い男女が主人公だったが、両親には50年前にきっと見ただろう緑の光線を今度はイタリアで見てもらいたい。そして、本当にその“幸せの瞬間”を目撃したら、こんなコトバをイタリア語でつぶやいて欲しい。“イル ヴェルデ キアロ(Il verde chiaro!)明るい緑色ね!”って。

*フォントワークスのキアロ-Bの書体見本(1997年)に使われた文章です。


幸せを味わう

ポップソングにポップアートにポップカルチャー。私たちの回りにはポップなものが溢れています。そうそう、「ポップな」という言葉自体、私たちはいろんなものにくっつけて使っていますよね。でも、改めて考えるとポップって一体何なんでしょう?

ポップとは<世界>を知ることではなく、世界を味わうことだ。

竹田青嗣という評論家は村上龍の文章を引き合いにしてそう語っています。

「のどが渇いた、ビールを飲んだ、うまい!」とか、「素敵なワンピース買った、うれしい!」という時の、その「うまい!」「うれしい!」といった感覚、それこそ人が自分の身の回りに広がっている<世界>を味わっている感覚であり、ポップの本質なのだ、というわけです。

かつては<世界>は知るべきものであった、とも竹田青嗣は言っています。知識の対象として、「世の中とは……」「社会とは……」と勉強して<世界>を知り、そこからさらに「自分とは……」「生きる目的とは……」ということを学ぶものだ、という意識があった。つまりいろんなことに通じていて、「人生哲学」を語りだしたら止まらないような人が<世界>を知り、人生を知っているエライ人、ということなのでしょう。

でもポップは感覚ですから、知識も勉強も抜きにできます。別にムツカシイことを知らなくても、自分が日々感じる嬉しさとか楽しさとか悲しさとか、そういった感覚さえあれば、「これが私の生きる道」とポップスも歌えるわけですし。

さて、ポップハピネス。これは「ポップな幸せ」という意味合いですが、「幸せを味わう」と受け取りたい気もします。だって「幸せ」というのは勉強して知るものではなくて、この身でしっかりと味わうものですものね。

参考文献
「陽水の快楽」 竹田青嗣 河出書房新社

*フォントワークスのPopハピネス-EBの書体見本(1997年)に使われた文章です。