タイポグラファの存在

タイポグラフィのワークフローを考えてみよう。タイプフェイスデザイナー、フォントベンダー、植字・組版に携わる人、校正者、印刷関係者、デザイナー(グラフィックデザイナーやエディトリアルデザイナー)、編集者。これらすべてが広い意味でのタイポグラファといえるのだろう。つまり、タイポグラファは、著述者と対極にあるものといえる。

また、レタリングとタイプフェイスは、対極にあるものだ。文字のデザインを扱うという点では同じだが、タイプフェイスはタイポグラフィの素材なのである。レタリング(マークやロゴタイプ、カリグラフィ)は、グラフィックデザインの分野である。

それでは、狭義のタイポグラファと呼ぶべきスペシャリストは誰なんだろうか。戦後昭和のタイポグラフィを担い、グラフィックデザイナーやエディタの意図を的確に実現してきたのは、ある面においては写植オペレータや組版植字技能者なのだと思う。つまり、多くのグラフィックデザイナーは、タイポグラファとはいえないのではないか。

イラストレータ、フォトグラファ、コピーライタなどと同様、文字組版に関しては写植オペレータが担当してきたはずだ。写植オペレータは、手動写植機の操作だけでなく組版ルールなどのタイポグラフィに関する教育も受けてきたはずだ。

現在のコンピュータ化の波は、スペシャリストの存在を曖昧にした。ソフトの力を借りれば、デザイナーがある程度までは簡単にできるようになった。写植オペレータが積み上げてきたことを何ら受け継ぐことなしに。技術は移り変わろうと本質は変わらないはずだ。

優れたタイポグラファの証として、欧文書体だったらひと目で書体の判別が付くというデザイナーがいる。和文書体でもあっていいのではないか。書体の選択はタイポグラフィの基本である。

日本酒では「利き酒」という。ワインではソムリエというスペシャリストがいる。もちろん、ソムリエは知識と理論を持って、適切にアドバイスできる人だ。タイポグラフィのスペシャリストとして、どの書体がふさわしいかというアドバイスができるような人がいていいのではないかと思う。それを誰が担えばいいのだろうか。

書体は、まず組版上のイメージだ。全体的なテイストの違いを嗅ぎわけた上で、フォルムやエレメントなどの細部の特徴的な部分まで確かめていくのが、正しい「利き書体」のやり方だ。

タイプフェイスのデザインにおいても、まずイメージなのだ。表現者として、従来のものと同じテイストのものを作ることはありえない。過去の書体を学習したものであってもだ。

共存する明朝体

写植活字の書体は、金属活字に比べて「弱い」と言われ続けてきた。これは、凸版と平版の違いではなく、書体のデザインに起因しているのである。例えば、金属活字書体を種字として作られた「岩田明朝体」や「モトヤ明朝」などを写植活字にして樹脂凸版で印刷すると、よほどのタイポグラファでない限り区別はつかないはずだ。

問題は、写植活字書体の代名詞だった「石井明朝体」(写研)のタイプフェイスとして持っているイメージにあるのである。「弱い」という特徴の書体なのであって、それが駄目だというのは活字礼讚者の好みの問題である。従来の書体にはない独特の個性だと考えるべきである。

現に、写研では「本蘭明朝」をリリースしている。同じ明朝体であっても個性が違うものであり、共存できるのである。優れたタイポグラファは、これらの個性を生かした使い方を示せるはずである。

これは、DTPになっても同じことが言える。よくDTPの書体は良くないと言われ続けたが、これもデジタルフォントが悪いのではなくタイプフェイスそのものに起因しているのだ。

言い換えれば、フォント(記憶媒体という意味での)は技術によって変わっていくがタイプフェイスは永遠なのである。金属活字の時代の書体は、DTPでも変わらないはずだ。写植活字時代の書体も変わらないはずだ。

「ヒラギノ明朝体」(大日本スクリーン)は、電子活字の書体の中では個性的で完成度が高い書体だ。写研のテイストを持っているという評価があるようだが、従来の金属活字や写植活字の書体とは異なる「個性」を持っていることを強調しておきたい。それは特に、かなにおいて顕著である。ヒラギノ明朝体のかなは、ときおり筆書きのニュアンスが見られるのだ。

つまり、「本蘭明朝」とは異なっているのである。個性的なニュアンスを持っていることは確かである。このようなベーシックな書体は、丁寧に地道に作らなければできない仕事だ。

その他にも、「本明朝」(リョービイマジクス)や「リュウミン」(モリサワ)などの金属活字時代からの書体から、「タイプバンク明朝」(タイプバンク)、そして「マティスPlus」(フォントワークス)や「JTCウインM」(ニィス)などのニューエイジまで、金属活字の時代から写植活字の時代を経て電子活字の時代に至る、数多くの明朝体が制作されている。

その書体が良いか悪いか、好きか嫌いかは別にして、すべて共存し個性を主張しあっているのである。書体の選択は、その個性で決められるべきであって、市場に左右されるのは悲しいことだ。

金属活字の書体は良かったという人がいる。写植活字の書体が良いという人が多くいる。それはすべてタイプフェイスデザイナーに向けられた言葉だと理解したい。タイプフェイスデザイナーは職人的な分野なので、なかなか育たない。タイポグラファの鋭い眼により洗練されていくものでもある。

書体分類と代替書体

明朝体は漢字書体の「様式の名称」である。横画が細く縦画が太い、横画の右端に三角形の形(ウロコ)がある、払いに太・細があるなどの特徴があるものの総称である。

同様に、ゴシック体、丸ゴシック体、楷書体、行書体、隷書体なども、「様式の名称」であり、様式に従った上でのさまざまな個性の書体がデザインされている。

ところで、「カソゴ」という書体と、「キッラミン」という書体がある。前者は、第6回石井賞創作タイプフェイスコンテスト第1位作品(鴨野実氏制作)、後者は、第8回石井賞創作タイプフェイスコンテスト第1位(橘高はじめ氏制作)である。

どちらも本文用書体なのであるが、その書体名から類推すると「カソゴ」はゴシック系、「キッラミン」は明朝系だと認識するのが自然だろう。ただ、それぞれの組見本を見ても、私としてははっきり肯定できないのである。この辺りになると、ちょっと無理が出てくる。様式の名前と分類を混同しない方が、わかりやすい。

どういう書体かを説明していてよく聞かれるのが「明朝系かゴシック系か、はたまた筆書系か」ということである。そういうカテゴリに入れられないのを作ってやろうという気になってしまう。で、判断できないものは「新書体系」などという曖昧な分類名でくくられることになる。

DTPでは、せっかく自分が気にいって買ったフォント(タイプフェイス)を使用してデザインしても、その書体が出力機に搭載されていなかったら思ったようには出力できない。多くの人が、印刷用の高品位な出力物を得るために外部の出力ショップを利用しているので、なおさらやっかいだ。

そこで、代替書体という考え方が生まれてくる。明朝体だったら、どんな明朝体であっても出力機側に搭載されている明朝体に置き換えてしまおうという案だ。必要悪といおうか。それで書体分類なるものが必要なんだそうだ。

同じ分類の書体になるわけだから便利といえば便利かもしれないが、利き書体もへったくれもあったものではない。こんな不便な状況は、タイポグラフィの発展を阻害している。自分が使用した書体が、画面で見えたように出力できないのはおかしい。

日本語フォント(タイプフェイス)を「書類」に埋め込むことができれば、それを出力ショップに渡せばよいことになる。出力機側にフォントをインストールする必要も無くなるのである。

すると、今度はタイプフェイスとフォントの権利の問題が発生することが懸念される。

類似と複製もしくは改変

著作権法では「著作物とは、思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」と記されているが、実際には、講演や放送の内容、写真・映画・設計図・地図など、あらゆるものが著作物として認められている。

「タイプフェイスデザイン」も著作物として扱われるべきであろう。少なくともデジタルフォントという形になれば、プログラムの著作物として保護されている。「タイプフェイスデザイン」が除外されるのはアンフェアである!

書体が1種類あれば確実に伝えられるし、いくら書体を変更したとしても文章の意味内容に変わりは無い。それでも多くの書体が必要なのは、感情表現にほかならない。それが、タイポグラフィの面白さである。

それでは、明朝体という様式に従うと類似書体ということになってしまうのだろうか。類似は、駄目なのであろうか。一般の人に区別がつかないと言われるものは認められないのだろうか。

著作権法は、「人が作ったものを他人が無断で使ってはいけない」という基本的なルールである。類似を取り締まる法律では決してない。偶然の一致ということだってありうるのだ。

明朝体が1種類しかないようなタイポグラフィは、つまらない。イメージに合う、あるいは好きな明朝体を選べるから面白いのである。だからこそ、表現者としては従来の書体にはない「個性」を作りださなければならないのだ。

もちろん、新しい創作のために過去の先達たちの仕事を学習することは推奨すべきことだ。優れた伝統は受け継ぐべきだ。だが、単に「真似る」ということであってはいけない。昇華しなければ意味がないのだ。

正当に創作されたタイプフェイスは著作権で保護されるべきである。問題は、タイプフェイスの無断複製などの行為なのである。それを防ぐための方策として、創作者の氏名を明らかにしておく必要がある。

複製」とは、何も手を加えず再生することである。いわゆるデッドコピー。トレースやデータ変換上の誤差、複写したものに機械的な処理を施したものも許されない。

二番目は「改変」である。複製したタイプフェイスの一部のエレメントだけを変更したり、線端部の形状を変更することだ。見た目の印象は異なって見えるかもしれないが、行為として決して認められるものではない。

そして、「二次的著作」も保護されるべきだ。無断でファミリー書体(ウエイト、形状、修飾)を制作したり、外字などの不足文字を制作したりすることは認められない。

特許のように新しい技術で置き換えられるものではないので、著作物に寿命はない。著作権法では、保護の期間を著作者の死後50年(法人著作物は公表後50年)と定めている。

著作物であるタイプフェイスは、保護期間が切れるまでは個人(あるいは法人)の所有物なのだ。書体を自由に使えるように開放しろと唱えるのは筋違いである。ダダをこねているにすぎない。

新しい明朝体は可能か

「小塚明朝」(アドビシステムズ)、「華康明朝体」(ダイナラブ)という本格的な明朝体ファミリーが加わり、さらに賑やかになってきた。良いか悪いかは別にして、これらも新しいテイストを持っている。

こんな状況の中で、私は「欣喜明朝」という新しい明朝体を手がけている。デジタルの時代が見失っている、日本語の文字が本来持っている伸びやかな線条を強調し、微妙な曲線により手書きの味が醸し出されるような明朝体である。

確かに、いろいろな明朝体が共存していて飽和状態であり、広く使われるかどうかは難しいかもしれない。それに割って入るには、優れたタイポグラファの目にかなう、心を打つような書体でなければならない。

明朝体という様式も含めて広く本文用書体ということで考えれば、新しいタイプフェイスのデザインは大いに可能であると思う。さらに、新しいメディアの登場はそれに適したタイプフェイスの登場を待っている。

時代は、タイプフェイスの「キレ」と「コク」を見分けられる優れたタイポグラファが多く登場することを期待している。現在の状況は、決して満足できるものではない。

参考文献

  • 「タイポグラフィの領域」
    河野三男 朗文堂
  • 「組版原論 タイポグラフィと活字・写植・DTP」
    府川充男 太田出版
  • 「TYPOGRAPHICS [ti:] 」No.187、No.197
    日本タイポグラフィ協会
  • 「書体ウォッチャー」
    佐藤豊
  • 「タイプフェイスデザイン事始」
    今田欣一