芋判と髭の謎
グーテンベルク?

…この絵の人物が左手にもっている物を見るがよい。一体この物はなんであるのか

(馬渡力『印刷発明物語』)

芋判か判子のおばけのようにしか見えない「なにか」をしっかり握り締めて、きりりとポーズを取っている意志の強そうなこの紳士は、誰あろう他ならぬグーテンベルクだそうです。でもなぜ、グーテンベルクが芋判なんか? それともひょっとしてこの肖像画の作者は、これは活字であると、グーテンベルクが自分で発明したものを誇らしげに持っているのだとでも言いたかったのでしょうか? よく見ると表面にABCDEFG…と大文字が意味なくいくつも並んでいたりします。

芋判

実はこの絵は唯一残っている肖像画として、グーテンベルクの姿を想像する手掛かりとなるべきものなのに、どう考証しても根拠のない代物であり、世界の七不思議の一つとされています(というのは嘘)。芋判もおおいに謎ですが、今やグーテンベルクの特徴とまで見なされているこの長いヒゲ。この鬚にもまた大きなクエスチョンマークがつくのです。真面目な話、グーテンベルクの時代にこんな豊かな鬚をはやしていたのは、ユダヤ人か巡礼者だけとか。グーテンベルクがユダヤ系だというのなら話はわかりますが、グーテンベルク家はマインツの(一応)貴族です。排他的な中世の都市に他民族の貴族が存在したとはちょっと考えにくいのですが……。また、グーテンベルクは居住地こそ転々と移動したものの、巡礼に旅立ったというような記録はありません。

いったいあなたは誰?(もしかしてサンタ?)とたずねたくなりますが、やっぱりモデルはグーテンベルクらしいのです。ただしこの肖像画の原画は、1584年に作成された作者不明の銅版画です。本人の死後1世紀以上もたってから描かれた顔が、グーテンベルクの肖像として世界中を瀾歩しているわけです。まるで日本の聖徳太子のよう。写真もない時代の、王族でも英雄でもない人物(言ってみれば没落貴族あがりの一職人)ですから、しかたのないことではありますが。

結局、グーテンベルクの顔やスタイルに関しては他に何の記述も残されていないため、現代の私たちには本当の姿を知りようがありません。この“不思議な帽子を被り芋判を彫りながら威厳をたたえる鬚の長い老紳士”を自分であると語り継がれて、はたして天国のグーテンベルクは嘆いているのか、はたまたほくそえんでいるのか、まさに神のみぞ知る、なのです(たぶん前者……)。

執筆:杉山朋子、村松佳子、蛭田龍郎

参考資料

  • 印刷発明物語
    馬渡力/日本印刷技術協会/1981
  • グーテンベルクの鬚「活字とユートピア」
    大輪盛登/筑摩書房/1982
  • メディア伝説----活字を生きた人びと
    大輪盛登/時事通信社/1982